麻生太郎一族は「右翼」と「ヤクザ」の生みの親だった。

今回は、「右翼」と「ヤクザ」について、詳しくお話ししています。
桜を見る会に、安倍が反社会的勢力、いわゆるヤクザを招いていたことが明らかになり、大問題になりました。
この騒動の手引きをしていたのは、間違いなく「麻生太郎」です。
「桜を見る会」は麻生太郎が安倍や菅に仕掛けた罠です。
桜を見る会が一気に世間で批判されるきっかけとなったのが、「招待客」の中にヤクザがいたことでした。
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この菅官房長官と写真に写っているのは「浪川会」の嶋本章嗣です。
「浪川会」は「九州誠道会」系の暴力団でした。
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浪川会(なみかわかい)は福岡県大牟田市に本部を置き、東京都台東区三筋2-10-13に東京事務所を置く指定暴力団。構成員は2018年末の時点で約210人。
会長:浪川政浩(二代目九州誠道会会長/九州誠道会理事長/三代目村上一家若頭)
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で、「九州誠道会」は永田町の怪僧「池口恵観」と仲良しでした。
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香港の英字紙「サウスチャイナ・モーニング・ポスト」は、「暴力団関係者であり、指定暴力団住吉会や指定暴力団九州誠道会と密接な関係にある」と報じた
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で、「池口恵観」は「麻生太郎」と一緒にミャンマーを訪問していました。
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何しろ、この「麻生太郎」も「池口恵観」と一緒にミャンマーを訪問していますからね。なんでこんなところに「池口恵観」がいるのかっていう話です。詳しくは以下のリンクを御覧下さい。
○ミャンマーと麻生氏と北朝鮮と… : 9月のblog
で、さらに言うなら、上の転載記事にもあります通り、この「池口恵観」はただのお坊さんでありながら、なぜか「北朝鮮総連ビル」が競売にかけられた際、45億円で落札しています。
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つまり、「池口恵観」を通して「麻生太郎」と「九州誠道会」が繋がっているのです。
元山口組系組員の「新澤良文」も招待されており、こちらも騒ぎが大きくなる一因になりました。

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「新澤良文(52)という男です。奈良県にある高取町の町議ですが、実はこの男、元々は山口組傘下組織の組員なんですよ。しかも、前科まである。元ヤクザであることは町の人間なら誰もが知っている。
そんな男が、堂々と『桜を見る会』に参加し、首相や夫人とツーショット写真を撮影。それを自分のフェイスブックに投稿して自慢までしているんだから驚きです」(神戸山口組関係者)
(中略)
本誌の取材に応じた新澤町議は、あっさりと元ヤクザであることを認めた。「私がヤクザ組織に在籍していたのは、’86年頃からです。
山健組系の臥龍会という組に所属していました。入れ墨も入っており、逮捕歴があるのも間違いありません。抜けたのは30歳のころ。組が代替わりして、冷や飯を食わされるようになったのがきっかけです。
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問題はこの「山健組」です。
「山健組」にも麻生太郎の息がかかっています。
麻生太郎は元「山健組」のイタリアマフィア「マリオ・ルチアーノ」と昵懇でした。

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23歳のときに来日、五代目山口組三代目山健組に所属し経済ヤクザとして活動していた。
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麻生太郎は浪川会や山健組を使って、安倍や菅がヤクザと繋がっているとマスコミに報道させようと画策したと考えられます。
これ以外にも、麻生太郎は「反社会的勢力」の「ヤクザ」と様々なコネクションを築いてきました。
皆さんは、「麻生太郎の地元」福岡が、「修羅の国」と呼ばれていることをご存知でしょうか。
福岡にはやたらと多くの「指定暴力団」が事務所を構えています。つまり、ヤクザが活発に活動している土地柄です。
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修羅の国福岡とは、暴力団抗争が続く福岡県を皮肉って付けられた通称である。
概要
福岡県内には、本拠を置く指定暴力団が5つ(北九州の工藤會、久留米の道仁会、田川の太州会、博多の福博会、そして大牟田の浪川睦会(旧名:九州誠道会)。なお、東京は4つ、大阪は2つ)あり、
特に警察にもケンカを売る事で知られる工藤会が、住民に対して恐喝、果ては襲撃する行為や、道仁会と浪川睦会による筑後・佐賀県域での活動を活発化させている。
さらに、最近は筑豊周辺で手榴弾、または手榴弾らしきものが度々発見され、手榴弾110番(手榴弾を見つけて犯人が捕まれば最高10万円貰える)と言う制度まで出来た事から、『手榴弾が普通に落ちている街』としても恐れられている。
しかも工藤會の武器庫として使われていたマンションからは、ピストルはおろかイスラエルのUZIマシンガン、果てはアメリカ軍の一般兵や特殊部隊などで使われているM4カービンライフル(※中華製のコピー品だろうけど)まで見つかると言う代紋TAKE2みたいな事が起こっている。
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工藤会は武闘派で、警察に喧嘩を売るほどだそうですね。
この中の「工藤会」が、麻生太郎と完全に繋がっています。
三代目組長の「溝下秀男」は、麻生太郎と直接電話できるほど昵懇だったそうです。
溝下の秘蔵っ子と麻生太郎との写真も流出しています。
「溝下(秀男工藤会会長)さんは私の目の前で麻生太郎(現財務大臣)に電話していた」(タケナカシゲルさん)
— 寺澤有 (@Yu_TERASAWA) October 27, 2018
写真はタケナカさんの配付資料より。麻生氏と溝下氏の秘蔵っ子といわれる人物。 pic.twitter.com/Wos28PacUA
しかも、溝下は「飯塚市」出身です。麻生太郎と同じです。
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溝下 秀男(みぞした ひでお、1946年 – 2008年7月1日)は、20世紀から21世紀の初頭期にかけて活動した日本のヤクザ。
福岡県北九州市を本拠地とする指定暴力団・工藤会の三代目会長、四代目総裁ならびに同代名誉顧問。『極道一番搾り』や『愛嬌一本締め』などの自著を世に出したことからも知られた。
1946年(昭和21年)、福岡県嘉穂郡頴田村小峠(現・飯塚市)に出生。
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生い立ち
福岡県飯塚市に麻生太賀吉、和子の長男として生まれる。
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麻生太郎も「安倍晋三」が「山口組」とズブズブなのと同様に、ヤクザと表裏一体の関係なのです。
安倍首相と山口組と統一教会と北朝鮮。全ては裏で一つにつながっている。
麻生太郎が工藤会とグルだとわかると、ちょっと前に流行した「ケチって火炎瓶事件」の真相も自ずと見えてきます。
「ケチって火炎瓶」事件では、安倍が「工藤会」に対立候補への妨害を頼んでいたことがバレて、Twitter等々で騒がれました。
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そんななかで安倍事務所は、元建設会社社長で暴力団と関係の深い、前科8犯(当時)のブローカーだった小山佐市氏に、古賀氏を攻撃する中傷ビラを撒くなどの選挙妨害を依頼したとの疑惑が持たれている。
その後、2000年に安倍氏の地元・下関の自宅や事務所など、関連施設5か所に火焔瓶が投げ込まれるという事件が発生。2003年にはこの事件の容疑者として、特定危険指定暴力団「工藤会」系暴力団組長と組員の小山氏が逮捕された。
この事件は「選挙妨害の“見返り”の約束を破ったため、小山氏が激高した」ために起こされたのではないか? というのが疑惑の全容だ。
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この「ケチって火炎瓶」事件を仕掛けたのも、「麻生太郎」だったのでしょう。
自らの息がかかった暴力団を安倍に近づけて、何らかの悪さをするように誘導し、後からそれをマスコミにリークして、安倍叩きをする。
「桜を見る会」とやってることが全く同じですね。悪人の本質はいつでも変わりありません。
そして、このような麻生太郎とヤクザとの真っ黒な関係は、今に始まったことではありません。
「ヤクザ」と「右翼」が表裏一体になった裏でも、「麻生家」が暗躍していました。
皆さんは「右翼」が「暴力団」とやたらと近くしているのを、疑問に感じませんでしょうか。
東京の街中でデカい音量で軍歌を流して、車を走らせている「右翼団体」はいかにもヤクザ、チンピラを思わせるような人たちの集まりです。
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実際に、ヤクザが右翼になったり、逆もしかりとされています。
こちらについては、先日「KAWATAとNANAのRAPT理論」においても、取り上げられました。
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兄貴分の口からは一切右翼団体についても日本青年社についても語られる事は無く、また俺自身も聞きづらい事もあって1度も右翼について質問をするということは無かった。
「あのぅ…俺の兄貴分は今どこにいるか知ってますか?」 と尋ねたら、刑事は「あぁ〇〇の事か…アイツは日本青年社に戻っただろ」と言われ、そのとき初めてある兄ぃから聞いた話は本当だったんだ…と思った。
簡単に説明すると日本青年社というのは広域指定暴力団住吉会系列の右翼団体なんだけど・・
ヤクザから足を洗った人のHPによると、組がなくなった後、兄貴分が日本青年団に戻ったそうです。
兄貴分が渡り歩いた組織の順序
<日本青年社 → ヤクザ → 組の崩壊 → 日本青年社> という流れで異動したそうです。
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では、いつ、誰が初めてそのようにヤクザと右翼をくっつけたのか。
それが麻生太郎の祖父、「吉田茂」です。

そもそも、右翼とヤクザが結びつくきっかけとなったのは「安保闘争」です。
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警察庁は、昭和35年(1960年)の安保闘争による共産主義革命への危機感を背景に行動右翼団体が誕生したとしている(任侠系の所謂「反共抜刀隊」である)。
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ことの発端となった「安保条約」を結んだのは「吉田茂」でした。
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1951年(昭和26年)9月8日に、アメリカのサンフランシスコにおいて、アメリカやイギリスをはじめとする第二次世界大戦の連合国47ヶ国と日本のあいだで、日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)が締結されたが、
主席全権委員であった吉田茂首相は、同時に平和条約にもぐり込まされていた特約(第6条a項但し書。二国間協定による特定国軍のみの駐留容認)にもとづく「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約」(旧日米安全保障条約)に署名した。
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このとき、左翼系の人たちが「共産主義」を普及させようと運動を繰り広げました。それを抑え込むために「ヤクザ」が使われたのです。
その実行犯が吉田内閣の法相「木村篤太郎」でした。

彼は「大日本国粋会」に「ヤクザを組織化して、右翼団体に仕立てる」ように頼み込んだそうです。その見返りは「賭博罪を見逃す」だったとか。
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法務総裁・木村篤太郎が、「日本青少年善道協会による青少年に対する反共啓蒙運動では、手遅れだ」と主張し、全国の博徒、テキヤ、愚連隊を結集した20万人の「反共抜刀隊」計画を構想することになる。
先ず木村は、元大日本国粋会理事長・梅津勘兵衛に博徒側の取りまとめ役を要請したものの、梅津は拒絶。7月に再度木村が東京都文京区の梅津宅を訪れ、大日本国粋会の再建を要請する。梅津は「刑法を改正し、賭博事犯は非現行なら検挙させないようにする」という条件をつけ、木村の要請を了承。
だが、「反共抜刀隊構想」は吉田茂首相の反対に遭い頓挫、加えて梅津の死去にともない国粋会再建計画も中断してしまう。
森田は高橋を連れて、衆議院議員の大野伴睦と小西寅松らに会い、小西に国粋会会長就任を大野に国粋会参与就任をそれぞれ要請した。
小西は国粋会会長就任を承諾したものの、大野は返事を保留している。こうして昭和33年(1958年)7月3日に「日本国粋会創立記念式典」が、品川プリンスホテルで挙行された。
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一応、表向きは吉田茂はこの動きに反対した、となっていますが、結局吉田内閣の閣僚「小西寅松」は「国粋会」の会長になっています。
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小西 寅松(こにし とらまつ、1902年9月10日 – 1960年4月14日)は、日本の政治家。自由民主党の衆議院議員。第3次吉田内閣で賠償政務次官を勤めた。
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「吉田茂」のような総理大臣本人が、ヤクザと公に交際するとまずいので、子分を使って暴力団との関係を築いた、ということですね。
さらに言うと、「右翼」と「ヤクザ」の誕生にも、実は「麻生太郎一族」が関わっています。
日本の「右翼」の始まりは「玄洋社」だとされています。
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玄洋社(げんようしゃ、1881年 – 1946年)は、旧福岡藩(黒田藩)士が中心となって、1881年(明治14年)に結成されたアジア主義を抱く政治団体。日本で初めて誕生した右翼団体とも。
1881年(明治14年)、平岡浩太郎を社長として旧福岡藩士らが中心となり、杉山茂丸、頭山満、箱田六輔、大原義剛、福本誠、内田良五郎(内田良平の父)、進藤喜平太(進藤一馬の父)、月成功太郎、末永純一郎、武井忍助、古賀壮兵衛、的野半介、月成勲、児玉音松らが創立に参画し、
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この「玄洋社」とズブズブだったのが「麻生太吉」です。
玄洋社の社長「平岡浩太郎」は、麻生太吉と昵懇でした。
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この平岡と交流があったのが筑豊の炭鉱事業家・麻生太吉。平岡が衆議院議員を務めていた明治31年には、当時九州鉄道取締役だった麻生と交わした書簡が現存している。この麻生太吉の曾孫が、内閣総理大臣・麻生太郎氏である。
(中略)
大正2年(1913年)2月、孫文が訪日し福岡に来訪した際、安川敬一郎邸に宿泊後、博多聖福寺にある平岡浩太郎の墓参、次いで玄洋社を訪問。歓迎の晩餐会を主催したのは安川敬一郎、貝島太助、麻生太吉ら筑豊の炭鉱経営者たちである。
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しかも、玄洋社の総帥「頭山満」は、先ほど出てきた「大日本国粋会」の総裁にもなっています。つまり、戦前の時点で右翼とヤクザは繋がっていた訳ですね。
「頭山満」の墓は「福岡藩主・黒田家」の寺にあるそうです。
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黒田家の菩提寺で如水(註:黒田官兵衛の別名です。)、長政をはじめとする黒田藩主や博多の豪商島井宗室、玄洋社の頭山満などの墓地があるお寺です。
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黒田家と麻生家も姻戚関係を結んでいました。
「黒田官兵衛」の妹が「麻生家」に嫁いでいます。
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ちなみに黒田官兵衛の妹(虎:後に妙円)はWikipediaによると、福岡(筑前)の麻生家に再婚して嫁いでいますので、そのすぐ近くの飯塚市も支配していた麻生太郎氏一族も子孫だと思われます。
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右翼団体「玄洋社」は、裏で「麻生家」と繋がっていたと言うことです。
また、玄洋社には「吉田磯吉」も加入していました。
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新聞「福陵新報」を創刊し、吉田磯吉といった侠客や、「二六新報」の主筆・鈴木天眼もしばしば関係した。
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彼は他でもない「近代ヤクザの祖」とされています。つまり、日本で誕生した初のヤクザなのです。
筑前国「遠賀郡」の出身でした。「石炭業」で財を成したり、「若松港」の発展にも貢献しています。
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吉田 磯吉(よしだ いそきち、1867年6月5日(慶応3年5月3日[1]) – 1936年1月17日)は、日本の実業家・政治家である。近代ヤクザの祖ともいわれる。
筑前国遠賀郡芦屋村(現・福岡県遠賀郡芦屋町)出身。父、徳平は松山藩士の家に生まれたが脱藩し、芦屋に移住した。
石炭輸送で成功し、芦屋鉄道社長などを勤めたのちに政治家を目指した。
若松港の石炭積み出しなどに貢献した地域の発展の功績者としてその名をたたえられ、
で、「麻生家」は「遠賀郡」から出てきた一族です。
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おそらくは炭坑に関わることで麻生家は財力をつけていったのであろうということで、掘り出した石炭を運搬する「川筋者」との付き合いもあったに違いありません
(家系図はウィキペディアにありましたですね→ 「麻生太郎>家系」 これを見ますと、麻生さんの先祖が遠賀郡に屋敷を築いたとありますね)。
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決定的なのが、「麻生太郎」とズブズブな「工藤会」は、吉田磯吉が源流となっているとされています。
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11.九州一の大親分・吉田磯吉も、一人乗りの石炭輸送船で働いてた。
12.九州一の大親分・吉田磯吉には、一般人のファンが多かった。
13.九州一の大親分・吉田磯吉の息子は、若松市長になった。
14.平成の時代、九州一の暴力団・工藤會は、吉田磯吉の流れ。
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「初代山口組組長」の「山口春吉」も、「吉田磯吉」の弟子「富永亀吉」の人脈から出てきたそうです。

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捜査当局などによると、吉田氏の子分の富永亀吉氏は北九州から神戸に進出し、神戸港の労務作業に人夫を供給する富永組を立ち上げた。富永氏の兄弟分の親分の舎弟の大島秀吉氏が富永氏亡きあと、神戸ヤクザ界のトップになったという。その大島氏の子分が山口春吉・初代山口組長。
日本最大の広域暴力団山口組のルーツは北九州だったともいえるのだ。暴力団に詳しいフリージャーナリストの猪野健治氏は著書「やくざと日本人」(ちくま文庫)で
吉田氏を「『現代やくざの鼻祖』といわれる」「系譜的に見るならば、伝統的なやくざ組織の大部分が吉田磯吉となんらかのつながりをもっている」と表現した。
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あの「山口組」すらも、麻生太郎の地元「福岡」に起源を持っている、ということですね。
しかも、麻生家も代々「炭鉱王」として福岡で力をつけていきました。
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麻生鉱業(麻生炭鉱、のちの麻生商店・麻生産業、現麻生グループ, Aso Mining)は、麻生太賀吉が経営した鉱業会社。かつては麻生グループの根幹をなしていた企業である。
1872年(明治5年)、筑前国嘉麻郡の庄屋であった麻生太吉が炭鉱業に乗り出したのが麻生鉱業の起源である。その後1918年(大正7年)に、事業を法人化し「株式会社麻生商店」を設立した。
1941年(昭和16年)に「麻生鉱業株式会社」に改称した。
戦時中、炭鉱業は重要産業であったため、各炭鉱には憲兵が配置されていた。戦後は労働組合が結成され、納屋制度の一部が改善していった。
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その上、「麻生太吉」は他ならぬ「若松港」の拡張を行っています。
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「多くの石炭を積み出すために、若松の港を改築しなければならない」。筑豊の炭鉱主たち、そして若松の港湾関係者たちの切なる願いをもって、明治23(1890)年5月に「若松築港株式会社」が設立されます。
洞海湾の水深を深くして航路を広げ、若松港を拡張しようというのです。発起人は、麻生太吉、安川敬一郎ら炭鉱業者を中心とした81名でした。
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磯吉の名字「吉田」は「麻生太郎の祖父」の「吉田茂」と一緒ですし、麻生家とヤクザ「吉田磯吉」が繋がっているのは確実でしょう。
最後に、福岡が「修羅の国」と呼ばれるほど「ヤクザ」が多いと申し上げましたが、実はそれも「麻生家」のせいです。
もともと、福岡には石炭を採掘できる「炭鉱」が沢山ありました。
麻生家も鉱山労働者をタコ部屋労働でこき使って、巨万の富を築き上げました。
しかも、彼らを押さえつけるために「暴力団」を使ったそうです。
—————————–こちらから転載
1954年(昭和29年)、麻生家が経営する産業セメント鉄道と合併し「麻生産業株式会社」となった。しかし石炭産業の衰退により、炭鉱は次々と閉山に追い込まれた。
そして1966年(昭和41年)に炭鉱労働者は全員解雇され、セメント部門は「麻生セメント株式会社」に分社化された。
戦前、納屋制度などがあり労働環境が劣悪だとして問題になることがあった。筑豊地方において同社は三菱系についで朝鮮人炭鉱労働者、被差別部落民が多かった。1932年7月25日には朝鮮人による労働争議が起き、これは筑豊全体に広がる大規模なものであった。この背景としては以下のようなものが挙げられる。
長時間労働で危険な仕事にもかかわらず他の炭鉱より安い賃金(他の炭鉱の二分の一ほどの給与)
さらに朝鮮人労働者は給料が2割カットされていた。
食事や住居等最悪の生活環境。
日常茶飯事の暴力。
朝鮮人労働者の休日が無いこと。
場所によっては無給で働かされていたこと。
などが原因となった。この争議には全国水平社も朝鮮人側を支援。対する炭鉱側は警察や暴力団員、特高を動員して争議は行われ
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福岡が「修羅の国」と侮蔑されるほど治安が悪く、ヤクザの根城になっているのには、そのような背景があったのです。
しかも、「右翼」の出所も福岡で、麻生太郎の地元だと。
右翼とヤクザの生みの親はまさに「麻生太郎」だと、はっきりと断言できます。